
【真言宗】
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| 照胤 | 1775-1829 | 成田山新勝寺中興八世 | 武田村千葉権之助家 |
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照胤(1775-1829)
真言宗智山派の僧侶。成田山新勝寺中興八世。字は快順。成田山中興六世・照乗上人の弟子で、のち七世・照誉上人弟子となる。はじめ延命院(成田市幡谷)の住持を務めていた。
安永4(1775)年、武田村に生まれた。出自については『人躰起立書』(『照胤上人代記録』「成田山新勝寺史料集」)によれば「下総国香取郡武田村権之助忰」とあるが、千葉家の系図に拠れば千葉権之助紀胤の子とされている(『千葉文華』第十五「下総千葉氏末葉考」)。ただ、紀胤は明和7(1770)年9月に亡くなっているため、その子・権之助宗胤の子かもしれない。
天明6(1786)年、十二歳のときに成田山新勝寺(成田市成田)で得度して「照胤」と号し、その後、京都智積院三十世化主・弘基僧正のもとで灌頂を受けたのち、十一年間、智積院で修行を重ね、享和4(1804)年に成田村の延命院(成田市幡谷)の住職となった。
文政2(1819)年3月、照胤四十五歳のとき、師の照誉上人が隠居することとなり、照誉は「後住之儀弟子延命院照胤」との願書を佐倉藩役所に提出し、4月16日には成田村の観音院、郷辺村の神光寺(成田市郷部)、成田村名主、組頭らからも「右延命院江新勝寺住職被為 仰付被下置候様一同奉願上候」との願書が提出された。これを受けて19日、佐倉藩庁は成田村名主・武助へ延命院照胤宛ての「明後廿一日四ツ時役所江可罷出候」との文書を下し、これを受取った延命院照胤は、21日、神光寺と武助とともに佐倉藩庁に罷り出、新勝寺住職を仰せ付けられ中興八世となる。先規の通り五十石を下し置かれた。
25日、照胤は江戸の佐倉藩上屋敷に佐倉藩主・堀田相模守正愛に「継目御礼」を申し上げるために成田を発ち、翌26日江戸着。28日、「出府着届」を上屋敷に提出し、閏4月1日、上屋敷にて藩主・堀田相模守と対面して御目見えを済ませた。その後も江戸で様々挨拶を済ませた後、21日に江戸を出立。大和田に宿泊し、翌22日は佐倉新町の万屋四郎右衛門方に宿泊。翌23日は酒々井村の笹屋喜三郎方で昼食をとり、新勝寺に帰寺した。その後もしばらくは行事が続いた。
七代市川団十郎寄進の額堂上棟式や、阿弥陀堂の再興、仁王門修復などを行い、文政12(1829)年3月には、小田原藩の下野国桜町陣屋で農政再建を図っていた二宮金次郎が成田山を参詣した際にこれを遇した。
しかし、春先には「疝癪」が悪化。江戸村松町の川村元良という医師を頼って、深川永代寺(江東区富岡一丁目)の般若院を旅宿と定めた。本来は成田山の旅宿は坂本町正福院だが、この年の3月23日に火災で焼失してしまったため、般若院が借寺とされた。
4月25日、佐倉藩庁に江戸行きの願書を提出。28日に江戸へ出て七十日あまりの療治を予定した。しかし、7月になっても体調は改善せず、7月7日にさらに五十日の延長療養を申し出た。ただ、照胤は「甚大病ニ相成候」とされ、7月18日に俄に江戸を出立した。実際にはこのとき照胤は亡くなったため俄の出立となったようだ。19日には遺骸が新勝寺に到着。20日、照胤は「養生不相叶」遷化したと公表された。世寿五十五(『新修成田山史』)。翌21日、佐倉藩庁に届が提出された。
後住を定める暇もない急逝だったが、弟子には俊才が多く、後住は弟子の照融上人が定められ、文政13(1830)年4月に貫主となった。なお、十世の照阿、十三世の照輪も照胤の弟子である(『照胤上人代記録』「成田山新勝寺史料集」)。
天保11(1840)年5月3日に亡くなったともされるが(『千葉文華』第十五「下総千葉氏末葉考」)、これは誤りである。
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