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■中村藩御一家■
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泉田教隆 (????-????)
泉田家初代当主。父は標葉小四郎隆連。通称は孫三郎。母は不明。初名は隆直。号は桃林。
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泉田家二代当主。父は標葉氏の惣領家・標葉左京亮盛隆。泉田孫三郎教隆の跡を継ぐ。通称は彦三郎。母は不明。兄の標葉左京大夫清隆は、相馬氏と激しく対立した。
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泉田隆家 (????-????)
泉田家三代当主。父は泉田彦三郎隆光。通称は彦次郎、右衛門尉。母は不明。
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泉田胤直 (????-????)
泉田家四代当主。父は泉田彦次郎隆家。通称は隠岐守。母は不明。初名は隆直。号は桃林。
隆直は大伯父で惣領家・標葉左京大夫清隆に従い、相馬治部少輔高胤と交戦していたが、延徳4(1492)年6月11日、行方郡藤橋村の陣中で高胤が急逝。高胤の嫡子・定胤が急遽相馬惣領家の家督を継承し、「(葦名)盛舜ノ一字ヲ受用」いて、名を盛胤と改めた。
盛胤は明応元(1492)年冬、父の遺志を継いで標葉攻めの軍を動かし、標葉郡泉田村に陣を構える一門筆頭・泉田隠岐守隆直と交戦した。しかし盛胤は無駄な戦いを避けて、隆直に降伏を勧める使者を派遣。隆直も、老公・標葉清隆の老衰と当主・標葉隆成の器量の無さに失望していたという。結果、隆直は盛胤の勧告に応じて相馬勢に降伏し、標葉氏の本城である熊野堂城(浪江町)を囲んだ。しかし、熊野堂城の堅固さと風雪のために城攻めは思うように進まず、膠着状態に陥った。
この膠着状態を破ったのは、熊野堂城内からの内応だった。熊野堂城内の標葉一門・藤橋小四郎隆豊と家老・牛渡九郎兵衛尉がひそかに相馬勢に内応を約束した。実はこの隆豊の父・標葉隆重は、惣領家の標葉清隆に居城・新山城を攻め落とされた経緯があり、密かに恨みを抱いていたのだろう。
盛胤が熊野堂城を攻めると、隆豊は城門を開いて相馬勢を導き入れると同時に、権現堂城内の宝寿院の住持に命じて放火させ、混乱した標葉勢は壊滅した。清隆・隆成父子も城内で自刃して果て、鎌倉以来、三百年にわたって標葉郡に強大な力を誇った常陸大掾一族・標葉氏は滅亡した。
標葉氏を滅ぼした盛胤は、行方郡・宇多郡・標葉郡の三郡を支配下に置くと、標葉郡の守護として一門筆頭・岡田安房守義胤を派遣し、権現堂城主として南の岩城氏に備えさせた。
戦後、盛胤に降伏して大功があった泉田隆直・藤橋隆豊には、それぞれ「胤」の一字と「縻駒(繋ぎ駒)」の幕紋が与えられ、相馬一族に准じられた。藤橋隆豊はのちに顕胤夫人・西氏の妹(空寶眞公大禅定尼)を娶っている。
嫡男・胤清(隠岐守)は泉田家を相続し、胤直の次男・胤泰は泉田家の同族・藤橋家の養嗣子となった。
・泉田隆直…「胤」字と「縻ぎ駒」を許され、「泉田胤直」を称する。子孫は中村藩御一家として幕末まで772石を領する。
・藤橋隆豊…「胤」字と「縻ぎ駒」を許され、「藤橋胤平」を称し、子孫は中村藩士。享保6(1721)年、中村藩では絶家。
■標葉・泉田・藤橋略系図
・平国香―…―標葉隆義―……―持隆――+―盛隆――+―標葉清隆――標葉隆成
(紀伊守)|(左京亮)|(左京大夫)(左馬助)
| |
| +―泉田隆光――泉田隆家―泉田隆直―+―泉田胤清…【中村藩御一家】
| (彦三郎) (彦次郎)(隠岐守) |(右近)
| |
+―隆連――+―泉田教隆==泉田隆光 +―藤橋胤泰
(小四郎)|(孫三郎) (彦三郎) (紀伊守)
| ↓
+―隆重――――藤橋隆豊―藤橋胤高===藤橋胤泰
(出羽守) (出羽守)(紀伊守) (紀伊守)
■泉田氏系図
→標葉隆連-泉田教隆=隆光―――隆家―――隆直―――――――胤清――胤雪―+―胤清―+――娘
(小四郎)(孫三郎)(彦三郎)(彦次郎)(=胤直・隠岐守)(右近)(右近)|(右近)| ∥
| | 泉胤政
| |(藤右衛門)
| |
| +―胤隆――胤清―+―胤連 +―胤冬
| (掃部)(掃部)|(内匠)|(掃部)
+―娘 | |
| ∥――――胤政 +=胤治―+―藤橋常隆
| 岡田胤信(与惣右衛門) |(主殿) (四郎)
|(摂津守) |
| +―隆常―――運隆
| (四郎) (甲庵)
|
| +―勘左衛門
+―胤重――監物―+―勘左衛門――娘 |
(河内) | ∥――+―伊右衛門
| ∥
+―道雪 西藤左衛門
泉田胤清 (????-????)
泉田家五代当主。初名は顕清。父は標葉隠岐守胤直。通称は右近大夫、隠岐守。母は不明。
父の跡を継いで泉田城主・標葉郷大将となり、二十五騎の同心を率いた。
泉田胤雪 (????-????)
泉田家六代当主。父は泉田隠岐守胤清。通称は右近大夫。母は不明。号は雪斎。
胤雪(右近大夫)は智将として知られ、嫡男・胤清(右近大夫)とともに伊達勢を防いだ。天正16(1588)年閏5月、伊達政宗が小手森城・石沢城などに攻め入った。この数日前に相馬義胤は三春城内の混乱に巻き込まれて鉄砲でねらい打ちされており、義胤によしみがあった大越顕光(紀伊)の居城・大越城に泉田雪斎(=胤雪)を入れて、伊達・田村氏に備えていた。ここに政宗は攻め込んできたが、城は落とされることはなかった。
泉田胤清 (????-1602)
泉田家七代当主。父は泉田隠岐守胤雪。通称は右近大夫。母は不明。
胤清は相馬長門守義胤に従って各地を転戦し、天正7(1589)年7月18日、義胤の坂本城攻めの後陣として標葉郷士150騎と歩兵130人を率いて従っている。
文禄2(1593)年9月の検地によると、「泉田右近大夫胤清」は二千八百五十一石を知行している。また、慶長年中の検地によれば、275貫30文を領していた。
慶長7(1602)年に亡くなった。没年齢不詳。胤清には跡継ぎの男子がなく、相馬家が旧領安堵されたのち娘聟・泉藤右衛門胤政(相馬三家の一家・泉家に養子に入っていた)が泉田塁主となった。
泉田胤隆 (1603-????)
泉田家八代当主。父は泉田右近大夫胤清。通称は掃部。母は不明。妻は泉縫殿助成信娘。法名は剛岩。
慶長7(1602)年に先代・胤清が亡くなったとき、その妻は妊娠しており、慶長8(1603)年、胤隆(掃部)が誕生した。そのとき、泉田家の旧領・標葉郡泉田村は泉田胤清の娘婿に当たる泉藤右衛門胤政に安堵されており、胤隆の母と胤政は相談。将来の泉田家再興のため、行方郡江井村に移り住んだ。そして胤隆が三歳になった慶長9(1604)年、藩主・相馬利胤は胤隆に標葉郡両竹村と七百七十石の知行地を下された。
胤隆は元服後、掃部を称した。
慶長16(1611)年、中村城の完成とともに大身藩士は城下集住を命じられ、胤隆は両竹村を去って中村城下に居を移した。
泉田胤連 (????-1674)
泉田家九代当主。父は泉田掃部胤清。通称は内匠。母は不明。妻は泉縫殿助乗信娘。
泉田胤治 (????-????)
泉田家十代当主。養父は泉田掃部胤清。実父は泉田勘解由胤朝。通称は浅之丞、軍兵衛、主殿。
延宝2(1674)年8月、兄・泉田内匠胤連の跡目を継ぐこととなり、胤治に与えられていた新知二百石は召し上げとなった。9月16日、胤治は江戸に到着し、藩主・相馬出羽守貞胤に拝謁。名を「主殿胤治」と改めた。
延宝7(1679)年7月1日、藩公・相馬出羽守貞胤が参勤交代のために国許へ戻る供として随っている。延宝8(1679)年6月13日、藩公・相馬弾正少弼昌胤と松平刑部少輔頼元女との婚礼が行われ、中村より派遣された惣家中名代として胤治が派遣された。
義長姉は富田甚右衛門の妻となり、義次姉は岡部求馬の妻となった。義弟・泉田四兵衛隆常は相馬昌胤の近侍となるが、その子・泉田運隆(甲庵)の子孫は医師として続く。
泉田胤冬 (????-1714)
泉田家十一代当主。父は泉田主殿胤治。通称は與次郎、掃部。
元禄9(1696)年8月8日、岡田宮内知胤、泉内蔵助胤和、泉田與次郎の御一家が昌胤の召しにより江戸屋敷に到着。ここで、泉田與次郎は元服し、泉田掃部と改めた。
元禄10(1697)年8月16日、父の主殿胤治が隠居したため、藩公・相馬昌胤から胤治の嫡子・掃部に「胤」の一字が下され、「胤冬」と号するよう定められた。この前日、「御一家」が「胤」の一字を勝手に名乗ることが禁じられ、今後は御一家の嫡子は、「胤」字を給わるまでは親の名乗りの一字を用いることが定められた。
元禄11(1698)年6月5日に行われた野馬追いでは岡田宮内知胤、水谷半左衛門堯宣、大浦庄右衛門宣清とともに原町にて藩公・昌胤を迎えた。
元禄14(1701)年2月11日、藩公・相馬弾正少弼昌胤の隠居に伴い、相馬図書頭敍胤が家督を相続したが、2月21日、家中の総代として江戸に出て祝義を述べた。
正徳4(1714)年5月27日、胤冬は水谷権兵衛堯宣組の後を受けて侍大将に任じられ、組支配を命じられた。しかし、12月19日、中村にて病死した。泉田掃部組は相馬将監胤賢が侍大将として継承した。
娘は組頭・寺社奉行を歴任した佐藤長兵衛恩信に嫁いだ。
泉田胤重 (????-????)
泉田家十二代当主。父は泉田掃部胤冬。通称は又次郎、掃部。妻は岡田靱負知胤娘、堀内十兵衛胤重娘、のち下浦靱負之清娘。
●泉田胤重周辺系図
堀内辰胤――――娘
(玄蕃) ∥
∥
岡田知胤―+―岡田春胤
(靱負) |(掃部)
|
+―堀内胤長
|(監物)
|
+―娘
∥
泉田胤冬―――泉田胤重
(掃部) (掃部)
正徳4(1714)年5月15日、藩公・相馬讃岐守宗胤に初めて謁見。「胤」の一字を授けられ「胤重」と称した。12月19日、父・掃部胤冬が亡くなり、25日に執り行われた法要では、藩公・相馬因幡守宗胤より香典が贈られた。そして、享保元(1716)年2月28日、胤重に泉田家の家督相続が認められた。
享保9(1724)年、侍大将・泉内蔵助胤秀が病のために侍大将職を辞したため、3月19日、跡を泉田掃部胤重が侍大将に就任して継承した。
享保17(1732)年5月7日、病によって家老職・組頭を辞した堀内覚左衛門重長に代わって家老職を仰せ付けられた。9月16日に執り行われた公子・相馬因幡守徳胤の婚儀では、石川助左衛門昌清とともに相馬家側の代表者となっている。9月18日、相馬弾正少弼尊胤・相馬因幡守徳胤両君が赤坂の浅野安芸守吉長を訪ねた際にも同道し、浅野吉長より盃と刀を賜った。
しかし、享保19(1734)年8月27日、「不調法」によって逼塞が命じられた。これは家老の守屋八太夫親信の不行跡に連座した罪のようで、八太夫は堀内十兵衛胤総宅にて泉左衛門胤秀・原傳右衛門信英が列席の中、家老職を罷免され、知行四百石も没収とされた。一方、胤重は岡田監物春胤宅にて門馬嘉右衛門景経が列席する中で、家老職を免ぜられた。守屋家には八太夫の嫡子・守屋永太郎に新たに百石を与えて取り立てている。胤重が罷免されたのち、谷傳左衛門貞盈が家老職・侍大将を仰せ付けられ、泉田組を引き継いでいる。
享保20(1735)年3月16日、胤重の逼塞は許され、侍大将に任じられた。これは泉左衛門胤秀が侍大将職を辞したことによるものである。
三男は岡部求馬宗綱の婿養子となって岡部舎人当綱を名乗り、次妹は守屋八太夫親信の妻、三弟は佐藤宗左衛門の妻となった。
泉田胤守 (????-1770)
泉田家十三代当主。父は泉田掃部胤重。妻は富田五右衛門侍実養女(実は小嶋十左衛門安重娘)。通称は掃部、杢丞。名はのち胤正。
元文2(1737)年7月7日、藩公・相馬弾正少弼尊胤に初めて謁見し、「胤」の字を賜り「胤守」と称した。
宝暦元(1751)年、病のため侍大将職を辞した。その後は、岡田監物徃胤が侍大将となり組支配を仰せつかっている。
明和7(1770)年2月、江戸家老職となる。しかし病がちであったようで、8月2日、江戸において亡くなった。跡式は嫡男の泉田斎宮胤精に定められ、10月27日、胤精は家督相続の御礼言上を済ませた。
娘は藩家老に抜擢された佐藤弘人孟信に嫁いだ。泉田家はこの佐藤家(佐藤荘左衛門家)と婚姻・養子縁組を重ねている。
●泉田家と佐藤荘左衛門家の血縁関係
佐藤重信―+―佐藤本信―――佐藤義信―+―佐藤運信==佐藤孟信 +========佐藤道信====佐藤信縁
(勘左衛門)|(勘左衛門) (長兵衛) |(長兵衛) (弘人) | (荘左衛門) (荘左衛門)
| | | ∥ ∥
| +―――――――佐藤孟信=+=佐藤著信 ∥ ∥
| (弘人) (蔀) ∥―――――+―娘
| ∥ ∥ ∥ |
+―佐藤以信―――佐藤恩信 ∥ ∥――――――娘 +―佐藤顕信
(宗左衛門) (長兵衛) ∥ ∥ (米蔵)
∥ ∥――――――娘
泉田胤冬―+―娘 ∥
(掃部) | ∥
+―泉田胤重――泉田胤冬―+―娘 +―佐藤信縁
(掃部) (掃部) | |(荘左衛門)
| |
+―泉田胤精―――泉田胤保―――泉田胤清――+―泉田胤周
(掃部) (掃部) (此面) (勘解由)
泉田胤精 (????-1795)
泉田家十四代当主。父は泉田掃部胤守。通称は斎宮、左門、掃部。妻は愛沢宗左衛門教高娘(久米半右衛門英時実娘)。
明和7(1770)年8月2日、父の泉田掃部胤守が江戸において亡くなった。跡式は嫡男の泉田斎宮胤精に定められ、10月27日、胤精は家督相続の御礼言上を済ませた。
明和8(1771)年5月5日、泉田左門胤精は家督相続の御礼を言上した。6月晦日には左門を改め「掃部」と称した。
安永2(1773)年11月26日、組支配を命じられた。
安永4(1775)年7月7日、婚姻が整い、翌安永5(1776)年12月、嫡男が誕生した。
天明3(1783)年8月13日、妻・愛澤氏が亡くなった。
天明3(1783)年8月23日、相馬因幡守恕胤の隠居と讃岐守祥胤の家督相続御礼を恕胤・祥胤とともに将軍に御目見えするため、相馬将監胤豊、岡田監物恩胤、堀内覚左衛門が江戸に向かって出立した。そして11月5日、恕胤五十歳の祝いが江戸屋敷で行われ、泉田掃部胤精、相馬将監胤豊らが和歌を献じた。
寛政7(1795)年6月18日、病が篤くなったため、組支配御免願を藩庁に提出。翌19日に亡くなった。
娘は松本甚左衛門董重(泉田四兵衛賢隆長男で松本家を相続)に嫁ぎ、嫡男・松本甚左衛門専重を生む。
泉田胤保 (1775-????)
泉田家十五代当主。父は泉田掃部胤精。通称は左門、掃部。隠居ののちは雅楽と号した。
寛政3(1791)年12月、「泉田左門」は十七歳で御目見前で袖留を済ませた。本来は御目見えののちに行われるものであった。
寛政4(1792)年3月3日には泉典膳とともに藩公・相馬祥胤に初めて謁見。「胤」の一字を賜り、「胤保」と名乗った。
寛政6(1794)年10月25日、前髪執の儀が執り行われた。寛政7(1795)年8月、胤保は登城を命じられるが故あって名代・大越甚五左衛門、川久保貞右衛門が登城し、泉田家の跡式継承が認められた。9月1日、胤保は改めて登城し、跡式の御礼を述べた。
寛政8(1796)年1月24日、病のため家老職・侍大将を辞した。しかしその後も御一家としての役割を担い、5月15日、城内的場に白猿が現れる吉瑞があり、急遽、歌絵が催された。岡田監物恩胤、堀内大蔵胤久、泉右橘胤傳、泉田左門胤保らが歌を献じた。
享和元(1801)年、相馬讃岐守樹胤の家督相続の御礼のため、祥胤・樹胤は将軍に謁見することとなり、先例の通り、御一家より三名が同伴することとなった。そのため、岡田監物恩胤、相馬将監胤慈、相馬主税胤綿が江戸に出府。4月18日、因幡守祥胤、讃岐守樹胤とともに将軍・徳川家斉に謁見した。その後、樹胤は初めて国元に下り、6月3日、堀内大蔵胤久、泉内蔵助胤傳、泉田左門胤保が中村城内にて謁見。太刀折紙を献上した。泉典膳胤陽も箱肴を進上している。
文化元(1804)年10月9日、左門を「掃部」と改めた。
文化6(1809)年5月13日の野馬追神事では藩公名代を務めた。文化9(1812)年5月19日の野馬追も胤保が名代を務めている。
文化11(1814)年4月19日、藩公・相馬樹胤が隠居のため、その御手道具が御一家衆へ下されることとなり、「琉球の花入れ」が「泉左衛門」「相馬将監」「相馬徳三郎」「泉田掃部」に下げ渡された。このとき胤保は病中のため、下賜は延期されたようである。その後、胤保は隠居願いを藩庁に提出。8月21日、嫡子の「泉田修理」が「掃部」と改め、胤保は「雅楽」と改めている。9月9日、泉田掃部の家督御礼と泉田雅楽の隠居御礼がなされた。胤保は病気のため、名代として熊川兵庫奉重が登城して御礼を申し上げている。
泉田胤清 (????-????)
泉田家十六代当主。父は泉田掃部胤保か。通称は此母、掃部。妻は幾世橋要人房経養女(生駒七郎右衛門稠祐娘)。
→幾世橋孟経―+―幾世橋房経―+―娘
(要人) |(要人) |(相馬主税胤貞妻)
| |
+―熊川長義 +―娘
(為次郎) |(脇本喜兵衛誠明妻) 堀内大蔵胤久娘
| ∥
+―幾世橋伴経 ∥
|(作左衛門) ∥
| ∥―――――ー―――幾世橋経徳
| 熊川左衛門長基妹 (要人)
|
+=娘
∥
泉田胤清
(掃部)
嫡男・胤周は泉田家の家督を継ぎ、泉田修理を名乗る。
次男以下二人の男子のうち一人は、佐藤荘左衛門家の佐藤荘左衛門道信の婿養子に迎えられ、佐藤荘左衛門信縁を名乗る。
もう一人の子・小三郎は、稲垣平右衛門光当の婿嗣子となり、天保14(1843)年11月15日、家督を継いで、稲垣織部知光となる。
二人の娘のうち一人は、富田甚右衛門良実の妻となり、富田五右衛門政実を生む。
もう一人は大野庄右衛門勝治の嫡男・大野宗左衛門勝精に嫁ぎ、娘(門馬嘉右衛門命経妻)と嫡男・大野木工輝勝を生んだ。
泉田胤周 (????-????)
泉田家十七代当主。父は泉田掃部胤清。通称は修理、勘解由。妻は池田図書胤直娘・キヨ。妹は泉内記胤門妻になった女性。娘は池田図書胤直の養孫・池田八右衛門直行の妻になっている。
文化2(1805)年12月、修理と改め、文化3(1806)年3月3日、初めて藩公に御目見えを済ませた。
文化12(1815)年6月28日、「泉田掃部」は侍大将に任じられた。
天保5(1834)年5月22日、子の泉田学とともに藩公・相馬益胤より「年来の御勤労」を賞された。
泉田胤熈 (????-1853)
泉田家十八代当主。父は泉田勘解由胤周。通称は学、又太郎。妻は相馬長門守益胤娘・富姫。
天保5(1834)年5月22日、父の胤周とともに藩公・相馬益胤より「年来の御勤労」を賞された。
相馬益胤―――於富
(長門守) ∥
∥
泉田胤周 +―泉田胤熈
(勘解由) |(又太郎)
∥ |
∥―――+―堀内英長【泉田豊後胤正】
池田胤直――娘 |(覚左衛門)
(図書) |
+―泉田永隆
(泉田快庵)
天保9(1838)年3月29日、益胤の娘・於富が中村城にて誕生した。名は祈願寺である歓喜寺が妙見に祈り、決められた。そして8月25日、於富と又太郎の縁組が整い、泉田邸に引き移った。
嘉永6(1853)年2月11日、病死した。
泉田胤正 (????-????)
泉田家十九代当主。父は泉田勘解由胤周。通称は覚左衛門、半右衛門、豊後、文庫。前名は英長。妻は堀内覚左衛門吉長娘。弟に藩医・泉田快庵永隆がおり、胤正の次男・益巳が泉田快庵の跡を継いだ。
弘化4(1847)年4月、養父の堀内覚左衛門吉長の跡を継ぎ、堀内覚左衛門英長を称した。しかし嘉永6(1853)年2月11日、兄の泉田胤熙が亡くなったため、5月3日、実家の泉田家に戻って泉田半右衛門を称し、5月10日、藩公・相馬充胤より「豊後」の通称が与えられた。そして、「胤」字を賜って胤正を称する。
戊辰戦争では大隊長として中村藩勢を率いて新政府軍と前線で果敢に戦っている。戦後は士族に組み込まれるが、相馬家の宗親族委員の一人として相馬子爵家の家政に加わり、明治23(1890)年には「家令」に任命されている。この頃起こっていた、旧臣・錦織剛清と相馬家による訴訟合戦に対応した。
堀内覚左衛門家は、熊川左衛門長基の子・鶴五郎が継ぎ、堀内鶴五郎豊長を称し、その跡は、堀内兵衛胤寧の子が継ぎ、堀内覚左衛門守長を称した。守長は明治となり、飯豊村長となっている。
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